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Akiyama Gallery 2010

「Sync-Salt Wall」 ​塩、ビデオ、プロジェクター
 
2'47"
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塩の壁(約800kg)の一面には無数の濃い塩水が落下する映像を映しだしている。
​その反対側の面には塩の紡錘形が落下し崩壊する様子と、その中を人物が歩行する様子がエンドレスに映しだされている。

「透過し、重層する表面」、あるいは「相反する二つの事象をつなぐもの」

 青木正弘

 (美術評論家、前豊田市美術館副館長)

 

 塩の壁に塩の映像を投影する、それも壁の表裏にである。壁の表には濃度の濃い塩水の落下、裏には紡錘形の塩の塊の落下とその堆積、しばらくすると堆積した塩のなかに男性とおぼしき影のような像が現れる。塩の壁の表面がスクリーンの働きをし、そこに映像としての塩が映る。次元を異にする実在の塩と映像の塩が同化したかに見える。何の情報もなくこの作品と対峙した人には、塩であることも分からないだろう。一体これは何だ?塩の映像彫刻?タイトルの《SYNC−SALT WALL》のSYNCは、同時性を意味するSYNCHRONIZATIONの略語である。

 

 この二ヶ月余り、それは、今回の《SYNC−SALT WALL》の構想から制作の最終段階に至る期間であるが、私の問いに増川が答えるというかたちで、十数回にわたるメールのやり取りをした。その幾つかを思い返しつつこの新作に向き合ってみたい。メールによる問答のなかのキーワードは、「非線形科学」である。それは、「エネルギー保存の法則」と「エントロピー増大の法則」という宇宙における普遍的な二つの物理法則に対し、崩壊と創造という相反する概念を「散逸構造」という言葉で一体化し、エネルギーが散逸することで自己組織化が図られるという理論に基づいて、自然界の動的な機構をこれまでの科学とは異なる観点から、明らかにしようとする新生の科学である。エントロピーとは、宇宙における物理量、すなわち質量、体積、長さ、時間などの総量を意味する。「エントロピー増大の法則」によれば、この世界のあらゆるものは、例外なく動から静に、構造から無構造に、生から死に向かうことになる。

ここで増川と私が交わした新作に関する問答の幾つかを紹介したい。

問:何故、非線形科学なのか、また非線形科学との出会いはいつだったのか。

答:2008年に出会った非線形科学の理論は、学生の頃に体験した知を蘇らせた

 のみならず、自分の心にすーっとしみ込んでいく感覚を与えてくれました。

 先ず、散逸することで立ち現れる構造体ということに目を引かれました。言

 い換えれば崩壊と創造、死と再生が科学的に実在していることが救いの言葉

 に思えたのです。崩壊や死が必ずしも無に帰する事象ではなく、それは創造

 や再生を構築していくことでもあると。散逸構造という考え方は、自分が思

 う所の彫刻の概念に近いものだと言えます。

問:何故、塩なのか、塩へのこだわりは、その物質性によるのか、あるいは観

 念に由来するのか。

答:何故、塩なのかについては、その物質性によるところからだと思っていま

 す。水晶もそうなのですが、物質の持つ特性を目で見ることができるところ

 に興味があります。

問:これまでの写真作品に何点かの左右対称の画像があるが、ロールシャッハ

 を意識したことはあるのか。

答:ロールシャッハを特に意識したことはありませんが、自然を含めた様々な

 事象には決定づけられた法則があると信じています。その法則の一つとして

 左右対称性を利用していると言えます。

 

 ここで改めて《SYNC−SALT WALL》の構造に目を向けてみよう。塩の壁の表面に映される濃度の濃い塩水と裏面に投影される紡錘形の塩の塊が、非線形科学における「散逸構造」の自己組織化の関係にあることが了解される。また塩の壁の表裏にそれぞれ異なった映像を同時に投影するという発想の元は、銅板や鉄板で作ったユニットの構築による彫刻を制作していた1980年代後半から90年代前半の時点で、増川が探究していた表面と内側の構造の関係性が、ここに至って再び現れたのだと解釈することも可能だろう。2008年に制作された《胎動》で人間の体温に近い36度から38度を境に点滅する保温電球が、人間の存在のメタファーとしての働きを担っていたように、これまでの増川の作品には、何らかのかたちで人間の存在を感知させる要素が導入されている。それが今回の作品では、堆積した塩の壁のなかに揺らぐような人影として現れている。増川は、「ロールシャッハについて特に意識したことはないが、様々な事象には法則があり、その一つとして左右対称性を利用した」と答えている。私の感想であるが、左右対称性はその場に人間の存在を醸す働きをする。それは左右対称性を具えた最も身近な存在が人体であるからだろう。文字通り動的生物である動物は、その殆どが左右対称の体型を具え、その場を動かず一ヶ所に止まってその生を全うする植物は左右非対称形なのである。またロールシャッハの図像が私にイメージさせるのは、先ず人体の骨格、とりわけ骨盤である。

 増川のメールには、問いに対する答と同時に作品の概要をはじめ、内容や設置方法の変更などがその都度、克明に記されていた。当初、映像の主たるモチーフは塩水の中で揺らぎつつ浮遊する男女であった。それが次のメールではメトロノームに変更され、塩水に浮遊する男女は消失する。同時にスクリーンの裏面に紡錘形の塩の塊の落下と堆積、あるいは濃度の濃い塩水の落下という映像のプランが現れる。次には裏面の塩水の落下がスクリーンの表面に移って、メトロノームの映像と重なる。それと同時に裏面の塩の堆積のなかに人の影が現れる。そして三週間の間を置いて届いたメールで、突如スクリーンの素材が塩の壁に変更され、また同時に表面の映像からメトロノーム(とその音声)が消失する。このようなプロセスを経て、冒頭に記した塩の壁の表裏に塩の映像を投影するという作品に到達したのである。

 私は、メールを受け取る度にプランの変更を図に描き留めながら、その展開を注意深く見守っていた。そしてある時、「純化」とも言えるこの制作プロセス自体が、「散逸構造」に近いことに気付いた。そこで「散逸構造という考え方は、自分が思う所の彫刻の概念に近いものだと言えます」という増川の答を思い出し、それが実感を伴ったものであることをも納得したのである。「SYNC−SALT WALL」が、それと対峙する我々一人ひとりに、人間観と世界観に対して如何なる思考を巡らせているかを問い掛けてくるような、「意」を発する構造体であることは確かである。

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