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TOSHIKAZU MASUKAWA

しなやかな構造-出原均(兵庫県立美術館学芸員)

 

しなやかな構造
増川寿一が近年関心を寄せてきた「散逸構造」。ノーベル賞を受賞したベルギーの物理学者・科学者、イリヤ・プリゴジンが提唱したこの概念には逆説性があるらしい。   この世界は非可逆的にエントロピー(乱雑さ)が増大していく、つまりエネルギーが「散逸」していく過程にあるのだが、その中にありながら、生態や生命など、物質やエネルギーを外から供給される開放系においては、それによって自己を秩序化し、維持する「構造」があるというのだ。それは、まさに死や崩壊に抗する生命あるいは生命的なものの仕組みについての科学的な表現といえよう。

 こうした関心は、なによりもまず、増川自身が彫刻における造形の問題から、徐々に死と生のそれにテーマをシフトしてきた経緯があったからこそである。それならば、死(崩壊)と生(秩序)についての科学的表現である「散逸構造」に対し、増川の芸術表現とはいかなるものなのか。そこに「散逸構造」的なものが組み込まれているのか。上述の逆説性が内包しているのだろうか。


 ここ十年余、増川の扱うメディアが、写真、映像、あるいは装置、既成の原料などと、自由度を高めているのは、この大きなテーマを扱うがゆえだろうし、そのアプローチについても複数を並行させているようだ。たとえば、熱や音など、生命をより直裁に示すものを、視覚に置換させる試み。あるいは、死と生が両義的にある素材(塩や、今回の身体から切り離された毛)を他のものと組み合わせる方法。そして、まさに人間像をモチーフとすることなど。私たちの凝視を促すこれらの作品からは、同時に世界への開かれを感じないわけにはいかない。


 いま、「散逸構造」の語に導かれて作品の構造そのものに目を向けるならば、かつてのような骨格的な彫刻のそれから、近年は、しなやかで柔軟な、場合によってはほとんど或る仕組みといったニュアンスまでも含みうる展開だといえよう。あたかも「散逸構造」のそれが時間性や動性、ゆらぎを伴う弾力的なものであるのと呼応するかのように。ただし、彫刻的な構造が否定されたのかといえば、けっしてそうではなく、彼の中では変化しつつもどこか持続しているように思う。対称の凛としたあり方はそのひとつかもしれない。それが作品に内在するとき、人が二本の足(まさに対称性)で立ちうることの驚きに似たものを感じることがある。
いたるところに奇跡がある。いたるところにありながら、それはやはり奇跡なのだ。
[2014.1 極小美術館テキスト]

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